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2022年7月17日日曜日

Midnight Express 深夜特急 その1

 


「グアテマラに追放された!」

「え?何言ってるの?ちゃんと説明して。」

「グアテマラに追放されたんだよ!」

6月13日月曜日の朝一番に電話で交わした、二十歳の息子との会話です。

 

最後の夏休みをどう過ごすかは、アメリカの大学生にとって大事なテーマ。履歴書に記載できる実務経験(インターンシップ)を積めれば、数カ月後にスタートする就職戦線での強力な武器になるからです。コロラドで生態学を学ぶ息子は担当教授達に掛け合い、彼らの人脈で良い仕事先を見つけてもらえないかを探りました。その結果、遠くミシガン大学の教授たちに繋いで頂き、彼らのチームの調査プロジェクトに助手として加えてもらうことになったのです。メキシコ最南端のタパチュラという土地で四週間調査した後、プエルトリコに飛んで更に四週間の追加研究をする、というエキゾチックなプログラム。友人達が学生課や親の口利きでインターン先をあてがわれる中、自力で、しかも他の大学のポジションを獲得したことの達成感に酔いしれる息子でしたが、この数週間後にあんな恐ろしい事態に陥ることなど、この時は知る由もありませんでした。

そもそもの失敗は、彼が幼い頃に作った米国パスポートが失効していたことでした。インターンシップの話が出始めた頃に私が気付き、直ちに新しい旅券を申請するよう言い聞かせていたにもかかわらず、何かと言い訳を見つけ後回しを続けた楽天家の息子。メキシコ行きが本決まりした後にようやく焦り始めたのですが、時既に遅し。別料金を払って超特急で作成してもらうオプションを選んだにもかかわらず、出発前には到底間に合わないことが分かりました。仕方ないので、日本のパスポートで日本人として旅立つことになったのです。

6月5日の夜明け前、サンディエゴの自宅から三十分ほど車を走らせ、メキシコとの国境にあるCBXCross Border Express)という施設の手前で彼をドロップ。入国手続きを済ませて徒歩で橋を渡ると、そこはもうティファナ国際空港。メキシコシティ経由でタパチュラまで約7時間。まずは市内のホテルで一泊(約20ドル)し、月曜の朝に迎えの車が来るのを待つ、という段取りでした。高地ジャングルの奥深くにミシガン大研究チームのコテージがあり、そこで寝泊まりしながら日々フィールド調査に出かける、というのです。我々夫婦はiPhoneFind Myというアプリで息子の居場所を時折確認していたのですが、月曜の午前中、予告通り彼のアイコンが姿を消しました。こんな時代になっても、世界には電波の届かない場所がまだあるんだねえ、と驚く我々夫婦。十年前は当たり前だったけど、外国に滞在する子供と暫く連絡が取れなくなったことで、若干落ち着かない気分になるのでした。

ところがそのわずか一週間後、クレジットカードの記録をチェックしていた妻が異変に気づきます。

「あの子、ホテルに360ドル払ったみたいよ。」

アプリで確認すると、息子の位置がはっきりと確認出来ます。電話をかけさせて事情を聞いたところ、金曜の夕方、山中を二時間歩き続けて一番近くのホテルに辿り着き、週末の三日間を過ごすことにした、とのこと。宿泊料の高額さを知り驚いたものの、あまりの疲労で引き返す気にはなれなかった。どうやらこのホテルはハネムーン客ターゲットのリゾートホテルらしく、シングル・ルームは無く、周りは若いカップルだらけ。

「なんでホテルに泊まることにしたんだよ?」

「とにかく、聞いていたのと全然条件が違うんだよ。週末もあそこに居続けるなんて、とてもじゃないけど耐えられなかった。」

助手として採用されたことは確かだが、自分のやりたい研究もさせてもらえると聞いていた。ところが現実は、大学院生(三十歳の女性)の研究テーマに沿って、一日中単純作業で拘束される。院生といってもこの人はフィールド調査初体験で、計画の立て方が甘く段取りも悪く、あれじゃどれだけデータをかき集めようが有意義な成果なんて絶対得られない、と息子。自分は大学でフィールド調査の基礎をしっかり叩き込まれたので、それが良く分かる。なのに彼女は、とにかく自分の言う通りに作業をしろ、の一点張り。とてもじゃないが、このままの条件ではバカバカしくて続けられない、と。

「それで、どうするの?」

教授たちは今週不在で、月曜まで現場に戻って来ない。週末のうちに、彼らにメールで現状の問題点と改善案を伝えておき、会った時にあらためて今後のプランについて相談するつもりだ、と息子。

自分が彼の立場だったら、これも運命と素直に現状を受け入れ、期限終了まで黙々と残りのお勤めを果たしていたことでしょう。しかし幼い頃から向こうっ気が強く、権威に怯むことも無いこの若者は、取り組もうと考えていた研究テーマを長文メールに書き綴り、教授たちに送信したのでした。後に息子から聞いたのですが、彼はインターンシップの準備期間中、「今回何を学ぶつもりか、どんな成果を出す予定か」を論文の形で大学側に提出させられていたのだそうです。なのに興味も関心も無い分野の調査助手を二ヶ月続けるというのは、あまりにも「話が違う」というのが彼の主張。

週末を終え、リゾートホテルから再び電波の届かない密林に戻って行った彼は、再びスマホの地図上から姿を消します。そして金曜の晩になり、我々夫婦にテキストで「交渉決裂」の旨を伝えて来ました。どうやらタパチュラ市街のホテルに移動した模様。

「明日の夜の便でサンディエゴに戻りたいんだけど、飛行機取ってくれる?」

君の提案する研究テーマは非常に興味深いが、こんな短期間ではとても成果は出せないよ、と諭すミシガン大の教授たち。とにかくうちの院生のサポートに徹して欲しい、と。自分の成長に繋がると思えない単純作業を今後何週間も続けるつもりは無い、と踵を返し、山を下りた息子。よくもまあそんな生意気が言えるもんだな、とあっけに取られる妻と私でした。しかも後で聞いたら、教授たちは大ベテランだとのこと。

「大学から出してもらった4千ドルのGrant(助成金)はどうなるんだよ?全額返済?」

「それは後で考える。とにかく家に帰る。」

ところが土曜の晩になり、やや焦りを帯びた声で息子が空港から電話してきたのです。

「飛行機に乗らせてくれないんだよ。メキシコに入国した記録が向こうのコンピュータに無いって言われてさ。」

ちょうどこの日の午後、アメリカのパスポートが我が家に配達されたのですが、果たしてこれが出発に間に合っていても今回の事件が避けられたかどうかは謎です。

「で、具体的にどうしろって言われてるの?」

「タリスマンっていう国境近くの街に行って、入国スタンプを押してもらえって。これからタクシー飛ばして往復すれば、もしかしたら離陸までに間に合うかもしれない。」

いや、そんな賭けに出るべきではない、今すぐ飛行機の便変更手続きをしてチェックイン済みのスーツケースを取り戻し、ホテルに泊まってしっかり休みなさい、と指示を送る我々夫婦。妻がネットでホリデー・インの予約をし、飛行機便を火曜日まで延ばします。

「有難う。週明けに朝一番でタクシー拾ってタリスマンに行ってくる。」

そして月曜の朝、彼からの電話で事態の急展開を知ったのです。

「グアテマラに追放された!」

国境の検問所を訪ねて事情を説明したところ、一体どうしてお前はこの国にいるんだ、密入国者じゃないのか、と警備隊員に連行され、グアテマラ側に追い出されたというのです。アメリカ側からメキシコ入りした人間を反対側のグアテマラに追放する行為は、どう考えても筋が通りません。しかしこれが、現実に起きてしまったのです。数十分で手続きを済ませホテルにとんぼ返りする腹積もりで出かけていた息子は、スーツケースもラップトップも着替えも部屋に置きっぱなし。携帯しているのはバックパック、財布、日本のパスポート、それにスマホのみです。さてどうする?飛行機便は翌日の晩。しかもホテルのチェックアウトは午後一時です。これから二十数時間のうちに、一旦追放措置を受けた国に戻ってホテルで荷物を回収し飛行機便に乗るなんて、到底不可能に思えます。

「まずはグアテマラの日本大使館に問い合わせなさい。それからメキシコの日本大使館、あと一応アメリカ大使館も。スマホの充電は絶対切らさないように。なるべく電波の届く場所にいなさい。」

こうして超多忙な月曜の朝、妻も私も仕事そっちのけで息子の救出作戦を開始したのでした。

(つづく)

2022年5月7日土曜日

Farmers Market ファーマーズ・マーケット


良く晴れた先週日曜の昼前、妻と二人でラホヤのファーマーズ・マーケットへ出かけました。生鮮食品、ファッション、アクセサリーなど多種多様な業態出店者が小学校の敷地を借り、運動会で放送席の日除けに使うような白いキャンバス地のキャノピーをぎっしり並べて商売に勤しんでいます。椅子ひとつ、ギター一本で歌う名も知らぬミュージシャン、大声で笑いながら足早に過ぎ去るティーン・エイジャーの女子グループ、ジャングルジムや滑り台の傍に立ち、おぼつかない足取りの幼い我が子を見守る母親たち、お互いのペットを撫で合う犬連れの家族。たとえ買い物をせずとも家路につく頃にはほんのり笑顔になっているような、週末を過ごすのにぴったりのイベントなのです。

二年以上もリモートワークが続く中、度重なる大規模組織改変により、顔を見たことも、今後一生会うことも無いであろう人達と働く機会が急増している今日この頃。信頼関係を築くステップをすっ飛ばし、ただただ職務を進めるためだけに交わす会話は殺伐としていて、まだ会社が小さく顔見知りだけと働いていた頃に較べ、格段に「幸せ感」が低い。そもそも他人は他人、お互い心の中じゃ何を考えているか分からないのだけれど、同じオフィスにいれば自然と会話を交わすようになるし、いつしか打ち解けるものです。誰かと分かり合えた、繋がった、という瞬間の感動を、職場では久しく味わっていません。

このファーマーズ・マーケットでは、数ヶ月前にSmallgoodsというチーズとサラミの専門店を経営する若い夫婦と話し込み、すっかり仲良しになりました。それからというもの、月二回はアメリカ各地の名産チーズを買って楽しむのが習慣に。普通のスーパーでショッピングしていたら、なかなかこうは行かないでしょう。他人同士がガードを落として近づくことの出来る、そんなリラックスした環境が整っているからこそ起きたマジックだと思うのです。

さてこの日も、立ち止まって商品を暫く眺め、数歩進んでは隣の店へ。そんな調子でゆったりと時間を過ごし、ちょうど最後の店に差し掛かった時でした。あれ、風が強いな、と思った次の瞬間、その店を覆っていた白いキャノピーが目の前でふわりと浮き上がり、二メートルほど上空であっという間に逆さまに。そのまま風に飛ばされ、敷地境の金網フェンスを越えて隣接する工事現場に落下したのです。まるで部屋の四方の壁が一斉に倒れ、中央に座っていたタレントがあっけにとられるドッキリカメラのワンシーンのよう。周囲の出店者達や買い物客の群衆は立ちすくみ、口々に驚きの声を漏らします。店主らしき四十がらみの白人女性はほんの刹那、微かな怯みを見せた後、

“Now come shop!”

「さあいらっしゃい!」

と明るい声で皆に呼びかけます。これで笑いが起こり、場の緊張が和らぎます。ちょっとの間、私も妻と一緒にクスクス笑っていたのですが、段々落ち着かない気分になって来ました。買い物客も周りの出店者たちも、問題解決に動き出す気配を一向に見せないのです。店主の女性は時々フェンスの向こうに目をやって肩をすくめながら客にジョークを飛ばしているだけで、助けを呼ぼうとする様子も無い。

「ちょっと見てくる。」

と妻に荷物を預け、敷地境界に沿ってどんどん進むと、作業員詰め所と見られるトレーラーハウスの両脇には隙間が見当たりません。金網フェンス越しに中を覗くと、建材がそこここに積み上がっているものの、重機も掘削口も見当たらない。そもそも日曜だし、すぐ隣でマーケットやってるんだから、工事現場が動いているはずもない。それならば、と足場の良い場所からフェンスをよじ登ってこれを乗り越え、さっきの店の裏側へ進みます。四肢を硬直させ仰向けに倒れた哀れな動物のようなキャノピーを、下から両手ですくうように持ち上げてみたところ、図体が大きくかさばるだけで、これが案外軽量なのです。私の救助活動に気がついたようで、二人の白人男性客が駆けつけ、フェンスの向こうから手を伸ばしてキャノピーを受け取り、無事に元の場所に戻すことに成功したのでした。

再び最初の侵入箇所に戻り、フェンスを越えてお店に戻ると、キャノピーを立たせようと男性二人が奮闘しています。見ると、天蓋を持ち上げるべきトラス構造の接合点が下を向いている。突風に持っていかれた時の衝撃で、逆向きに曲がってしまったのですね。これをトップまで持ち上げないと、ジョイントが固定されずキャノピー中央が陥没してしまい、四本の脚は真ん中に向かって傾いてしまうのです。しかしこのうなだれたトラス中心部、真下から手を伸ばしても全然届かない高みにあります。最高点まで持ち上げるには、相当のジャンプ力が要求されるぞ…。

フェンス越え往復とキャノピー回収作業完了時点で、「SASUKE」難関コースをクリアした選手のようにすっかり満足していた、還暦目前の私。過去数年間Body Craftの川尻トレーナーから受けて来たパーソナル・トレーニングの成果が、こういう形で実証されるとは…。地獄の「体幹いじめ」に耐え抜いて来たのは無駄じゃなかったぜ、とほくそ笑みます。ところがここへ突然、思っても見なかった最終ステージ挑戦権が差し出されたのです。二人の男性は代わる代わる背伸びしてみたものの、あっさりギブアップ。さあ、どうする?「やれんのか?お前に!」と心の声が詰め寄ります。チャンスはたった一回だ。何度も跳んだけどやっぱり駄目でした、などという無様な真似はしたくない。よし、絶対に一発で決めてやる!深呼吸の後、渾身のジャンプ。右腕を突き上げます。カチリとロック音が聞こえ、見事天蓋が最高点で固定されたのでした。よっしゃあ!と心の中でガッツポーズ(後で妻に聞いたら「そんなに跳んでなかったよ」とのことでしたが)。

無事に任務を完了して妻の元に戻った私でしたが、この時強烈な違和感に襲われていました。なんかちょっと怖い…。なんだろうこの感覚?

冷静に振り返ってみると、店主の女性、最後まで私の目を見ることも声をかけることもなく、サンキューの一言も発しませんでした。感謝が欲しくて取った行動ではないものの、普通に考えたら当然「有難う」な場面でしょ、これ。しかも他のお店の人達が、誰一人助けに来ようとしなかった。おいおいみんな、どういうつもりだ?何考えてんだ?

妻も同じく奇妙な感覚を味わっていたようで、「行こ、行こ、」と二人足早に立ち去ったのでした。

帰宅後、妻と昼食の支度をしながらも何となく頭の片隅にこの件が引っかかっていて、「何故彼女はお礼を言わなかったのか、どうして誰も助けようとしなかったのか」についてひとしきり話し合いました。人々の心の中でどんな思いが巡っていたのかなんて検証しようもないので、このモヤモヤを晴らすのは簡単じゃありません。私が辿り着いた仮説は、「訴訟を恐れたのではないか」というものでした。

囲われた工事現場に侵入することは、恐らく違法。後で然るべき筋を通して回収するつもりだった。そこへ頼んでもいないのに見知らぬ男がフェンスを乗り越えて行った。もしも工事関係者に見咎められたり、器物破損に至ったり、あるいは怪我でもされたりしたら責任問題になる。私はあの男とは何の関わりも無い。気がついたらキャノピーが元に戻っていた、という体でやり過ごしてしまおう、と。周囲の出店者たちも同様の心境だったのではないか…。訴訟社会のアメリカだけに、この仮説は信憑性が高い。でもだとしたら、ちょっと違う種類の怖さがあるぞ…。

その晩、あまりにも落ち着かないので、元同僚のリチャードに電話して意見を聞くことにしました。

「突然すまんね。今日さ、カクカクシカジカで…。」

藪から棒に何の話だよと突っ込んで来るかと思いきや、彼は最後まで待たず、

「なんだその女!無礼にも程があるな!」

と怒りに満ちた溜息をつきます。え?そういう反応?僕の立てた仮説はこうなんだけど、と説明すると、

“She’s not smart enough to think about the liability. She’s just rude.”

「法的責任にまで頭が回るほど賢い人じゃないね。ただ単に無礼なんだよ。」

と吐き捨てます。そして、悲しいけど世の中にはそういう人間が大勢いる、とことん話し合えば誰とでも分かり合えるものだなんてしたり顔でのたまう政治家もいるけど、そんなの嘘だ、どうしても理解出来ないタイプの人間も存在するんだよ、と興奮気味に話を広げるリチャード。

「そこまで体を張って助けてくれたシンスケにお礼の一言も無いなんて、俺には考えられないよ。」

「いやいや、そんなに大した働きじゃ無かったんだよ…。そっか、アメリカ人だから訴訟を恐れるっていうのは深読みが過ぎたか…。」

そういえば帰り道に妻が、きっとみんなから嫌われてる人なんじゃない?と言ってたことを思い出し、リチャードに伝えたところ、

「うん、それが正解だね。」

ときっぱり。だとしたら、周囲の出店者たちが誰も救いの手を差し伸べなかったのも頷けます。

「こないだも俺、どこかの建物のドアを開けて、後ろから歩いて来た若い女性が来るまで押さえてたんだけど、なんにも言わずに通り過ぎて行きやがったんだよ。ほんと、どこにでも礼儀知らずっているんだよな!」

と吐き捨てるリチャード。彼のやや激しめの道徳観を垣間見て、ちょっと笑ってしまう私でした。

「そういう時ってどうするの?」

と尋ねる私に、

「その女の背中に向かって、きっぱり言ってやるんだよ、You’re welcome!(どういたしまして)ってね。」

「え?ほんとに?」

さすがにそこまでは予想していなかった私。いくらなんでもやり過ぎでしょ、と突っ込む前に、リチャードがこう付け足したのでした。

「心の中でね。」

 

2022年4月9日土曜日

Think like a mountain 山のように考える


「今回のコースもヤバいよ、ほんと。」

電話の向こうで大学三年の終盤を迎えた息子が、しみじみとした口調でそう告げました。彼が今回履修しているのは、Entomology(昆虫学)。博物館や他大学での豊富な勤務経験を持つ教授が担当する講座で、あまりの面白さで集中力が途切れないと言うのです。

「一言も聞き逃したくないんだ。」

注意力のレベルに関してはとても褒められたものじゃないこの若者にそこまで言わせるからには、相当なクオリティの講義に違いありません。

「今日の授業ではさぁ…。」

サバイバルのために生物達が会得して来た擬態パターンの数々を、詳しく解説する息子。毒を持つ別種と外見を似せたハチ、警戒心を煽る風体の蛾に瓜二つな蝶。ある種の昆虫にその葉を食い荒らされてきた樹種は、進化の過程で様々な形状の葉をつけ天敵の目を欺くようになった、などなど。

「面白すぎてたまんないよ。二つ続けて大当たり。」

前回のコースでは、パンデミックや生態系の変化など、自然界のあらゆる現象を数理モデルを使って分析するという課題にどハマりした息子。この世界は密接に繋がっていて、どこかで起きた些細な変化が巡り巡って別の場所に、ひいては全体に影響を及ぼすという現象をコンピュータ・モニター上で視覚化するのですから、彼の興奮は理解出来ます。この時学んだことが今回のコースにも生きて来ているという息子。

「組織も経済も歴史も、みんな同じだよね。すべてのパーツが絶えず影響を与えたり受けたりしながら変化を続けてる。我々はついAが起きたからB、というリニアな考え方をしがちだけど、世界は大きな塊として動いてるんだもんね。」

と私。

「だよね。そういうの、Think like a mountain って言うんだよ。」

と息子。

Think like a mountain(山のように考える)というのは、初めて聞く表現です。電話を終えてからネットで調べてみたところ、これはアルド・レオポルドという環境系の学者が「野生のうたがきこえる(A Sand County Almanac)」という本の中で使ったフレーズで、ひとつひとつの事象を単体で捉えるのではなく、生態系全体を密接に連携したひとつのシステムとして考えなさい、という教え。私の意訳はこうなります。

Think like a mountain.

ひとつの大きな系として捉えなさい。

コロナウィルスやウクライナでの戦争は疑いもなく世界に多大な影響を及ぼしているけど、僕らひとりひとりの何気ない一言ですら、組織や社会を変える力がある。そういうマインドセットを持った途端、ネガティブではいられなくなります。

さて、今週水曜は久しぶりにダウンタウンのオフィスへ出勤。若手エンジニアのキャロリンが再会の喜びに顔をほころばせて近づいて来たので、会議室でひとしきり近況をシェアしあいました。

彼女の直属の上司だったドミニクが会社を去ったのは、およそ一年前。以来空席が埋まることなく、ドミニクの上司だったリチャードによる兼務が続いた。つい最近、別会社から引き抜かれたジェイソンの就任が決まり、ようやく一安心。

「どんな人なの?」

と私。

「地に足ついた、ごく普通の人よ。」

ごく普通の人、という言い回しが誤解を招く可能性を案じたのか、彼女が急いで付け加えます。

「彼が前の会社を辞めた後、部下だった四人が同時に転職して来たの。その事実だけとっても、彼がどれだけ信頼されてた分かるでしょ。なのに全然偉そうじゃないし、私に対してもすごくフレンドリーに接してくれるの。」

「そうか、そういう人がボスになって良かったね!」

と喜ぶ私。

「あ、そうだ。私、ちょっといいことしたの。」

とキャロリンが恥ずかしそうに打ち明けます。大ボスのリチャードと電話で話した時、ジェイソンの元部下四人の配属先が話題になったのだそうです。ひとりはサンディエゴ支社、ひとりはオレンジ支社、ひとりはサンノゼ支社、と居住地別に所属させ、それぞれ別のマネジャーの下に就けることにする、と。そこですかさずキャロリンが、こう口を挟みます。

“Richard, I have a crazy idea.”

「リチャード、私、クレイジーなアイディアがあるんだけど。」

ジェイソンという素晴らしい上司を失うくらいなら、と前の会社を思い切って飛び出した四人。きっと今、かなりの不安を抱えていると思う。元同僚たちからネガティブな言葉を浴びているかもしれない。そんな彼らが新天地で初対面のボスをあてがわれ、もしも反りが合わなかったらどうか。最初だけでもジェイソンの直属にしておけば、きっとみんな安心して頑張れるんじゃないか…。

「そしたらリチャードが、よく分かった、考えてみるって言ってくれたの。彼は部署全体を見渡していて、戦力の公平な分配に意識が集中してたのね。私のクレイジー・アイディアが聞き入れられるとは正直思ってなかったけど、次の日にジェイソンから電話があったの。彼はとても興奮していて、四人が自分の直属の部下になることが決まったって言うのよ。リチャードに進言してくれたんだってね、本当に有難う、四人とも物凄く喜んでいて、これで安心して力一杯働けるって言ってるって。」

ジェイソン自身、元部下たちを自分の下に就けられないか一度リチャードに打診したのだが、軽く却下され諦めていたのだそうです。転職早々ゴリ押し出来ないもんね、と私。

「君の一言で四人の人生、それにジェイソンの人生が変わったよね。そして彼らの家族の幸せにも貢献した。ひいては会社の業績にもポジティブに影響するだろう。凄い話だね。君があの時ちょっとでも怯んでクレイジー・アイディアを口に出すのを控えていたらと考えると、この世界のダイナミズムを感じずにいられないよ。」

照れくさそうに顔を赤らめるキャロリンを見ながら、”Think like a mountain” というフレーズを心に浮かべる私でした。世界は緻密に連携している。僕らひとりひとりの言動が、世界を変えるパワーを孕んでいるのだ、と。

 

2022年3月20日日曜日

Doesn’t have the same ring to it 同じリングを持ってない


先週土曜の午後四時半。ミラメサのボーリング場で待ち合わせした相手は、元同僚のディックでした。二週間ほど前の晩に突然テキストを送りつけ、

“Hello Amigo. How have you been? Seems about time we should get together.”

「よぉアミーゴ、どうしてる?そろそろまた会おうよ。」

と誘って来たのです。振り返ると、十月に晩飯を楽しんで以来、五ヶ月も連絡が途絶えていました。ボーリング・デートは彼の持ち込み企画で、前回コーエン兄弟制作映画の話題で盛り上がった際、The Big Lebowskiの愉快さについて語り合ったため、何となくその連想が導いたアイディアだったのでしょう。

「俺、最近ますますDude(ジェフ・ブリッジス演じる、浮浪者レベルにリラックスした風体の主人公)に見た目が似てきたよ。」

と事前にテキストで予告してきました。コロナで引き籠もるうち徐々に身だしなみへの頓着が薄れ、「在宅ホームレス」とでも呼ぶべき荒んだなりに変貌していくのは自然の摂理でしょう。期待を胸にややニヤついてボーリング場へ出向いた私でしたが、入り口付近の椅子に腰掛けて携帯をいじっていた彼は、前回よりも髪を短く刈り、シワのないコカ・コーラ・ロゴ入り赤Tシャツに身を包んでいました。

「なんだよ、全然こざっぱりしてんじゃん。」

と握手しながらからかうと、

「さすがにあの格好で現れる奴は現実にいないだろ。」

と笑い、立ち上がるディック。

最後にボーリングをしたのがいつだったのかも思い出せないほどご無沙汰の私に対し、一時期結構ハマったという相棒は、190センチ超えの巨体を華麗にしならせ、エゲツないカーブボールを投げて経験の差を見せつけます。ところが、真っ直ぐ転がすしか脳のない私が意外にもスペアを連発しポイントを稼ぐ一方で、ド派手な音を立ててピンを吹っ飛ばすものの度々スプリットに苦しめられたディックは、点数が伸びず段々と焦ってきます。額に吹き出す汗を拭いつつ、最終10フレームで立て続けにストライク。ようやく同点に追いついて1ゲーム目を終了。記念にスコアボードの写真を代わる代わる撮る二人。2ゲーム目は調子を上げたディックが大差で私を下し、気持ちよく会場を後にします。

「めし、どうする?」

とまだ汗だくの相棒。いつもだったら事前に私がきっちりスケジュールを組み、予約もバッチリ済ませておくのですが、今回はディックの企画。前日届いた彼のテキストには、

“How about meeting at 4-4:30…bowl…then maybe grab some grub.”

「四時から四時半の間に集合して、ボーリングして、で、何か食いに行くって感じどうよ。」

と極端にアバウトな段取りが記されていました。

「あのさ、grab some grubっていう表現、初めて聞いたよ。新しいのありがとね。」

「喜んでもらえると思ったよ。」

Grubは「カブトムシの幼虫」ですが、日常では「食事」という意味で使われます。動物が地面を掘って餌を探す様子を表す動詞でもあるので、この派生の仕方は納得。これにGrab(つかむ、手に入れる)という単語をつけて「何か食いに行く」と洒落たわけですね。十年を超す付き合いの中で、英語表現に対する私の渇望感をしっかり理解し、事あるごとに協力してくれている彼。ほんと、相変わらずいいヤツだなあ…。

結局私が提案した焼肉屋「牛角」は二時間待ちの満席だったため、そのそばにあった小さな寿司屋で夕食を楽しむことに。注文後、お互いの近況をあらためて語り合います。

ディックの転職先はまずまずの業績。ストレスレベルも低いとのこと。

「あのさ、さっきテスラに乗ってなかった?車換えたの?」

と私。さっきボーリング場で一旦別れた際、彼が白いテスラで走り去るのを見たのです。

「うん、リースしてんだ。なかなか気に入ってるよ。恐ろしく静かだぜ。良かったらこの後、試乗してみる?」

環境部門の大物である彼が電気自動車に乗るようになるのは時間の問題だったけど、それにしてもテスラとは出世したもんだなあ…。

私からの最大のニュースは、二日前にサンディエゴ・オフィスでパーティーが開催されたこと。二年に及ぶリモートワークを経て、ずっと会っていなかった同僚たちと顔を合わせたのです。ビル2階のオープンテラスに日暮れ前から集まって来た60人を超える出席者達と、ケータリング業者が運び込んだ一口サイズのピザやオードブルを楽しみつつ談笑します。

「過去二年間電話のみで繋がっていた人たちと、ようやく対面したりしてさ。すごく楽しかったぜ。」

同い年で長い付き合いのジョナサンは、コロナ期間に飛行機操縦免許を取得し、こないだ初飛行を果たした。五歳上のアンディは、週20時間勤務に切り替え、これからは好きなことに時間を割くことにした…。

「暫く会わないうちに皆、色々人生に変化があったんだなあってしみじみ思ったよ。」

二年前、世界は突然フリーズし、日が経つにつれすっかり色褪せてしまった。何となくぼんやりそう思いこんでたけど、友人たちは着実に前へ進んでいた!

「そう気付かされて、興奮しちゃったよ。ほんと、あのパーティーに参加して良かった。」

実を言うと、そう明るく話しながらも、私は何か異変に気づいていました。ちょっと前から胃の辺りがムカムカしていたのです。注文したキュウリサラダもカリフォルニア・ロールも、一口箸をつけただけでストップ。ううむ、これはちょっと深刻だぞ…。

「ごめん、テスラの試乗はまた今度にさせて。気分がいまいち優れない。今日はこれで帰るわ。」

ゆっくり時間をかけて慎重に深呼吸を続けながら夜のハイウェイを飛ばし、何とか家に辿り着きます。しかしそれから二日間というもの、猛烈な下痢と吐き気に翻弄され、ひたすらベッドで過ごすことになったのでした。食事はおろか、上体を起こして水をすすることさえ辛く、日曜の晩になってようやく妻の用意した雑炊を口にする私。

「何か変な物食べたんじゃない?」

と尋ねる彼女に対し、

「考えられるとしたら、ボーリング場で飲んだペプシかなあ。」

と答えますが、その前から胃の変調には気づいていたんです。一体何に当たったんだろう…?

しかしその後、部下のシャノンからのメールで、事態は新たな展開を迎えます。

「お腹の調子がひどいので、明日はお休みさせて。」

「おいおい、こっちも同じだよ。パーティーで何か変なもの食べたっけ?」

「ううん。あそこでは私、何も口にしなかったのよ。」

「え、そうなの?じゃ、食中毒説は消えたな。」

当日彼女と私は、朝から隣同士の席で勤務していたのです。ということは、パーティーが原因じゃないのかも。だとしたらオフィス内での感染か?

月曜の午後になり、およそ三十人の参加者が同じ症状で週末寝込んでいたというニュースがセシリアから飛び込んで来ました。暫定的な結論は、これが「ノロウィルス」と呼ばれる輩の仕業だというもの。感染経路は不明なものの、パーティーのためオフィスに集まった社員の約半数が犠牲となり、楽しかったはずのイベントの印象が暗く陰ることになったのでした。

日暮れ頃になり、急に思い出して携帯を取ります。

「ディック、実はあの後大変だったんだ。確証は無いけどノロウィルスにやられたっぽい。オフィスで罹ったみたいなんだ。君に感染ってないことを祈るよ。」

このテキストに、彼がすぐ返信。

“Me too. But if I did, does that make us blood brothers?”

「そうだね。でももし罹ってたら、俺たちブラッド・ブラザースってことになるよね?」

Blood brothers とは、「血の誓いを交わした友」とか「義兄弟」という意味。さすがディック、どんな状況でもジョークを忘れない男…。

更に彼が続けます。

“I guess it would be virus brothers, but that doesn’t have the same ring to it.”

「ウィルス・ブラザーズかも。だけど、」

までは分かったのですが、後半の意味がつかめません。

「それだと同じリングを持たないな。」

Same ring(同じリング)?指輪?輪っか?

ネットで調べたところ、この場合のリングはベルの音、響きのことらしい。う~ん、でもまだやっぱしワカラン。

どうにも気持ち悪いので、後日、別の同僚クリスティに解説してもらいました。

“That means it doesn’t sound the same (like two bells having the same pitch).”

「同じようには聞こえないってことよ(2つのベルの音色が一致するみたいには)。」

なるほど、つまりディックの言いたかったのはこういうことですね。

“I guess it would be virus brothers, but that doesn’t have the same ring to it.”

「ウィルス・ブラザーズかも。ちょっと違うか…。」

 

微妙な英語表現を巡って友人たちとやり取りをする、この懐かしい感じ…。

静かに喜びが溢れて来ました。

2021年11月20日土曜日

Mental Constipation メンタル・コンスティペーション

 


「正直に言うわね。本当は水曜の会議、出るには出られたんだけど、言い訳を作って欠席したの。」

電話の向こうでオレンジ支社のアリサが、ゆっくりと言葉を選びながら告白します。

「エレンとまともに会話出来るような心理状態じゃなかった、というのが真相。」

この数週間、アリサと週三回ペースで話し合ってきたのですが、限界が近いことは感じていました。だからこそ、水曜の電話会議は私が飛び入りで参加することを決めたのです。

「エレンの質問には一応答えておいたよ。分からないことは君と相談してから返事するって言っておいたけど。」

一年前、地元のガス会社をクライアントとする巨大プログラムのサポートを任されたアリサ。同時進行する複数のプロジェクトを社内のPMシステムにセットアップし、コストをトラッキングし、月次請求書や契約変更のドキュメントを整え、フォーキャストをアップデートし、と様々な業務を包括的に進めるのが彼女の仕事です。プログラム・マネジャーのピーターから厚い信頼を受けつつ、複数のPM達との密なコーディネーションを重ねて順調に飛ばして来たアリサですが、ここへ来て急ブレーキがかかります。

数ヶ月前にこのガス会社の新しいプロジェクトを担当することになったエレンが、アリサの仕事にダメ出しをして来たというのです。

「私が送るレポートを全部、シンスケやシャノンが使ってるフォーマットに変えろって言うの。内容は同じなのに、よ。とにかく、私が出すものにことごとくケチをつけるの。シャノンならこうしてたとか、シンスケならこういう見せ方をしてくれる、とか不満をぶつけて、私の能力を全否定して来るのよね。」

サンディエゴ支社所属のエレンは過去十年近く、私とシャノンとでサポートして来ました。生物学分野のエキスパートである彼女は、野生生物をこよなく愛する人物です(マウンテンライオンが南カリフォルニアで絶滅の危機に晒されている話を、苦痛に満ちた表情で語ってくれたこともありました)。しかしその一方で、思ったことをそのまま悪気なく口にするタイプでもあります。彼女と一度でも会って話せばすぐにそれと分かり、なあんだと笑ってしまえる程度の可愛らしい個性なのですが、電話とメールのみのコミュニケーションではそれが伝わりにくい。アリサはなんとかその要求に応えようと改善を試みるのですが、再三再四のぶっきら棒な批評に、個人攻撃を受けていると感じてしまったのですね。

昨日ふと気付いたのですが、私のプロジェクト・コントロール・チームは今や総勢二十名。度重なる組織改編の煽りを食い行き場を失った社員をよっしゃよっしゃと受け入れているうち、いつの間にかビッグダディ化していました。新しいメンバーはテキサス、コロラド、オレゴン、北カリフォルニアなどに広く散らばっています。地元サンディエゴのオフィスで面接して新人を採用していた頃には分からなかったのですが、こうして全く素性の分からない、しかもこれから一生会うことも無いであろう人達をメンバーに加えて行くというのは、なかなかのストレスです。

こういう「ヴァーチャル」部下が増える度、コミュニケーションに費やす時間も多めに要求されるため、本来打ち込むべき業務はサービス残業ゾーンにどんどん食い込んで行きます。さすがにこれは「(今流行りの)持続可能」どころの話じゃない。状況を打開しようと去年の今頃、私が新しい職務(PDL)を引き受けた際、チームを二つに分けシャノンとアリサをサブリーダーに立てることにしました。シャノンは私と十年近く同じオフィスで一緒にやって来た仲ですし、既に彼女が良く知っているメンバーを多数受け持つことになったので、さして不安はありませんでした。その一方でアリサは、比較的新しいメンバー。そんな彼女が更に顔も知らないメンバー達をリードすることになったため、負荷が急に増大したことは明白です。

シャノンを含めたサンディエゴのメンバー達には過去数年に渡り、財務分析の方法、エクセルのショートカットやデータのビジュアライゼーション(視覚化)などを、私が対面で丁寧に手ほどきして来ました。ところがアリサはそもそも総務職が長く、財務データの扱いに長けて来たわけではありません。プロジェクト・コントロールのチームに入ったのは、職種の統廃合で居場所を失ったからであり、いきなり「シンスケ達が提供するサービス」を要求されても、ハードルが高すぎます。しかしそれでも何とかエレンの期待に応えたい彼女は、私に個人レッスンを依頼して来ました。その心意気に感動して毎週特訓を重ねて来たのですが、対面でも一年以上かけて漸く身につくようなスキルが、そう簡単に会得出来る訳もありません。そうこうするうち、エレンのダメ出しでじわじわとメンタルが痛めつけられ、とうとうギブアップ状態に陥ったアリサ。

「あのさ、この数年で僕らに起こってることを冷静に考えたらさ、精神状態をまともなレベルに保つことすら至難の業だって気がするんだよね。」

と私。

Change is the only constant(変化こそ不変)とか言うじゃない。でもさ、現実はChange is exponential(変化は指数関数的)でしょ。AIの進化、業務の海外アウトソーシング、加速していく組織改編。気心知れた同僚とより、今や顔も知らない赤の他人と働く時間の方が圧倒的に多いじゃない。これまで体験したこともない未知のゾーンに深く突入してるっていうのに、僕らはいまだに、事がうまく運ばないのは自分が至らないせいだと感じちゃう。考えても考えても、打開策が見つからない。」

「そうなのよ。何とかしようともがけばもがくほど、深みにはまって行く感覚。」

と溜息まじりに呟くアリサ。

「実は僕もちょっと前まで、そんな状態に深くはまり込んでたんだ。体調は最悪。便秘がちでお腹にガスが溜まってさ。全身の皮膚はカサカサ。寝てる間に掻きむしって血だらけになった。で、主治医に言われたんだ。皮膚の状態は腸内の様子をそのまま映し出していると考えた方がいい。そして腸内の状態は食事とストレスとに左右される。食物繊維を多く摂ることを心がけ、同時にストレス源と向き合うべしってね。で、基本に還って、コントロールが及ぶ範囲だけに意識を集中することに決めた。自分の力で簡単に変えられないことにエネルギーを費やしても、成果が上がらないどころか逆に衝突を生んで事態が悪化する可能性が高い。更には、そのいざこざを解決するために頭を使わなきゃいけなくなる。課題は増える一方で、脳の回路は大渋滞。まさに、Mental Constipation(メンタル・コンスティペーション)だよ。」

「メンタルの便秘」というのは、咄嗟にでっち上げたフレーズ。こんな言葉が実際に存在するのかどうか不安でしたが、アリサには伝わったようでした。電話の向こうでクスリと笑います。

「で、まずは溜まったガスを逃してやらないといけない。」

さらにクスクス。

「そこで相談なんだけど、もしも君がエレンのための財務レポート作成に燃えていて何としても続けたいと思っているのでなければ、僕にそれ、譲ってもらえるかな。PDLの職を解かれて、時間が空いたんだ。しかもこのレポート作成、僕の大好きな仕事なんだよ。」

電話の向こうで、しばしの静寂。

「そうしてもらえるなら、本当に有り難いんだけど…。」

「引っかかってることがあるなら、何でも言ってみて。」

数秒の戸惑いを経て、アリサがこう答えます。

「あのレポートを作る能力が自分に無いことを認めてしまえば、Extinct(絶滅)の日が近いんじゃないかと不安になって。」

なるほどね。そう思うのも無理は無いな。

「あのね、チームで仕事することの価値は、それぞれの得意技を生かして全体として最大の成果を挙げることだと思うんだ。君には、無数の懸案事項を丹念に潰して行って大きなプログラムを堅実に進める能力がある。もしも財務分析が苦手なら、得意な人間に任せればいい。君はその成果を受けて、全体の最適解を導けばいいじゃない。財務分析みたいな数字扱いの仕事、五年後には大部分をAIに任せてる可能性が高いと思うよ。君が今やってることこそ、機械には出来ない分野なんじゃない?」

アリサの声に、明るさが戻ります。

「私の仕事の意義を認めてくれて、本当に有難う。シンスケがレポートを担当してくれるなら、私、やっていけそうな気がするわ。」

そこで思わず、調子に乗る私。

「ガス会社のプロジェクトでメンタル・コンスティペーションを起こしちゃったけど、これでちょっとガスをリリース出来そう?」

ガス会社とお腹のガスをかけた、英語の駄洒落。会心の一撃でした。果たしてアリサは、電話の向こうでふふふと口を閉じたまま笑います。私もムフフと笑い、笑い終わるとまだあっちで笑っていることに気づき、更に笑います。アリサの方も笑い終わった時、まだ私が笑っているのにつられ、また笑い始めます。これを三往復した後、漸く静寂。アリサが落ち着いた声で、こう言いました。

「ホントにやっとガスが出た感じよ。どうも有難う!」

 

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2021年10月17日日曜日

No shit, Sherlock! 御名答!


金曜の夕刻、暖簾越しに懐かしい顔が現れました。私の姿を確認するや、ふわりと表情を和らげます。ドアを開けて頭を低くし、ゆっくり入店する金髪の巨人。そして真っ直ぐこちらへ歩みを進め、硬い握手を交わします。

近所のお気に入り店、EE NAMI Tonkatsu Izakaya(ええ波とんかつ居酒屋)で待ち合わせしたのは、元同僚のディック。夏の初めにランチ・ミーティングをして以来の対面です。四ヶ月のご無沙汰でしたが、着席と同時に会話をスタートさせました。まるで前回のリハーサルで中断していた新曲の練習を、一瞬の目配せだけで再開するボーカル・デュオのように。

二人共自宅からリモートワークを続けていること、仕事は大変だけど何とか凌げていること。ディックは最近同じ職場で二人の同僚が立て続けに亡くなり、精神的なダメージを受けていること。しかも知識労働市場の流動化が加速していることもあり、彼の周囲では転職熱が高まっている。新顔の彼が、既に人員の流出を食い止める側に立っている、などなど。

「息子くんはどうしてる?」

とこちらに話を振るディック。

「勉強、スポーツ、パーティー、とキャンパスライフを大いに楽しんでいるみたいだよ。」

と私。我が家の大学生は途方も無い楽天家であり、その自信過剰ぶりは悠々とK点超えしています。もはや「愚か者」ゾーンに着地しているかもしれないことに、当の本人が気付いていない。「全学年で僕のこと知らない奴はいない」とか、「水泳部の次期キャプテンには僕以上の適任者がいない」とか、ただ笑うしか無いお気楽発言を大真面目にかましてくる。

「あの年頃って、ホントそうなんだよな。」

とディック。サウスダコタの田舎町で、小学校から高校卒業まで学年トップの地位を守り抜いた彼は、州のエリートが集う工科大学に進むのですが、そこで生まれて初めての挫折を味わったそうです。

「俺、それまで一度も能動的に勉強したことが無かったんだ。予習復習してしっかり授業に集中するだけで、トップの成績が取れてたから。ところが大学じゃ、そのやり方が通用しない。どんなに頑張っても、対象を理解出来ない状態が延々と続くんだ。あれは恐怖だった。」

それでも何とかコツを掴み、最終的には優秀な成績で卒業したディックは、難関の大学院へ進みます。あの経験で余計に自信過剰が増長しちゃったな、と笑う巨漢。そして肩を怒らせ、スーパーヒーローみたいに両手の拳を固めて力みます。

“The world would bend if I flexed.”

「俺がちょいと筋肉膨らませりゃ世界の方で歪んでくれるってね。」

社会に出れば、どうしても越えられない障壁にぶつかる時が来る。その衝撃に備える意味でも、今は目一杯栄養を摂って心身を強化すべきだ。若い時期は、自尊心を傷つけるノイズなど不要である。

「ま、あまりにも膨らませ過ぎるとそれはそれで危険だけどな。」

とディック。おっと、それで思い出した。

「息子がさ、O Chem(オーケム)落としたって電話で言って来たことがあってさ。」

オーケムとはOrganic Chemistry(有機化学)のこと。落第点を避け、教科まるごと学期途中でドロップしたという息子。単位を落とすなどという屈辱的な決断をさらりと報告され、唖然とする私。理由を尋ねると、

「だって難しすぎるんだよ。赤点取って総合成績下げるよりましでしょ。」

はあ?なんだその被害者的開き直りは?難しいからこそ学ぶ価値があるんじゃないか!

「俺もオーケムには苦しんだよ。」

とディック。どうやらオーケムは、理科系でも最高難度グループに属する科目みたいです。

Mr. Sherlock(シャーロック先生)っていう生真面目な教授が教えてたんだけど、宿題もテストも常に膨大なんだ。しかも授業の進捗と試験範囲とがきっちりシンクロしてなかったりしてさ。ある時、及第点取れた学生が全体の16%しかいないという異常事態に陥った。」

その結果を発表した先生が、静まり返った学生たちを見回し、神妙な面持ちでこう言ったのだそうです。

「色々調べてみて分かったんだが、どうやら今のやり方だと君たちの大半がついて来れないようだね。」

すると教室の後ろの方から、誰かがこう叫んだのだと。

“No shit, Sherlock!”

「ノーシット、シャーロック!」

これには思わず笑った私ですが、探偵界のスーパーヒーローであるシャーロック・ホームズと担当教授の名前をかけた駄洒落、という点しか理解出来ませんでした。後で調べたところ、No shitというのは「正解、その通り」という意味であり、シャーロックを付け加えると、「さすが名探偵」という皮肉が足されるのだそうです。

“No shit, Sherlock!”

「御名答、さすが名探偵!」

教室中が爆笑したことはもちろん、先生も吹き出したそうで、ふざけた学生が咎められることは無かったとのこと。

さて、ヒレカツ定食は人生初だというディックに、ソースとマスタードを混ぜて味付けする方法を教えると、その美味しさにしきりに感心します。

Black Porkって何?」

とメニューを観ながら質問する彼に、日本では黒豚という品種の肉が珍重されており、特に美味であるイメージを多くの人が持っている、と説明します。

「外見が黒いばっかりに、可哀想になあ。」

と笑うディックに、さっき鑑賞を終えたばかりの映画の話をします。

ヴィゴ・モーテンセン主演のGreen Book(グリーン・ブック)は、1962年のアメリカを舞台にしたロード・ムービー。黒人差別という重いテーマが軸になってはいるものの、私が気に入ったのは、カルチャーも哲学も共通点ゼロの男たちが、何度も衝突しながら最終的に友情で結ばれる、というストーリー。

「気付いたんだけどさ、僕はこのロード・ムービーっていうジャンルに、特に惹かれるんだ。ミッドナイト・ラン、サンダーボルト、レインマン、などなど。分かり合うことなど到底出来そうもない二人が、色々あって一緒に旅路を進む羽目になる。仕方なく力を合わせて葛藤に立ち向かううち、心を開いて行く。そして違いを認めたままお互いを受け入れ、リスペクトを覚え、固い絆を結ぶ。人間関係の構築や継続がいかに困難かを日々味わっている観客に、熱いミラクルを見せてくれる。それも、信じることが出来そうなレベルのね。」

「うん、分かる。違いを認めたまま受け入れる、というところが大事だよな。」

とディック。我社で昨今横行している、過去に会ったこともこれから会うことも無いであろう人達とチームを組み、難しい仕事を進めて行く、というやり方。東海岸のリーダーが西海岸のチームに、フィリピンやルーマニアの社員を使ってプロジェクトを進行せよ、と指示を出す。ビデオ会議でも顔を出さず、お互いの名前をどう発音するのかも分からぬまま。こんな手法で上手く行くわけがないことは、ロード・ムービーを三本ほど観れば誰でも気が付くでしょう。信頼関係を築くには、長い時間をかけて衝突や和解を繰り返す必要があるのだから。

思い返せば、ディックと私は過去十年に渡り、何百時間も会話を重ねて来ました。苦楽を共にした仲間、と言っても過言ではありません。彼が突然姿を消し、一ヶ月以上も復帰して来なかった時は随分気を揉んだものでした。ストレスが蓄積して追い詰められていたところに盲腸が破裂し、長期間の自宅療養を余儀なくされた後、まるで二十代に戻ったかのようにリフレッシュして職場に現れた彼。

「いやあ、あん時は本当にほっとしたぜ!」

と、ヒレカツを頬張りながら笑う私。すると突然ディックが箸を起き、静かな口調でこう言ったのでした。

“Thank you for always being there for me.”

「いつも味方でいてくれて有難うな。」

ふと見ると、彼の両目が赤くなっています。おいおいやめろよ、そんなあらたまって!

「そうだ、久しぶりに英語の質問があるんだけど。」

と話を変える私。

「名詞から始まる映画のタイトルがあるでしょ。その中に、Theが付くものとそうで無いものがあるじゃない。例えば、ターミネーターの最初のバージョンはThe Terminator なのに、続編はTerminator 2なんだよ。サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)はTheで始まってる一方で、アバター(Avatar)のように、無冠詞で押しているものもある。この違いは何?印象に差異は出るの?」

これにはぐっと詰まってしまうディック。

「いい質問だなあ。はっきりした答えは出せそうに無いよ。考えたことも無かった。アメリカ人の99%は、ターミネーターにTheが付いてたかどうか聞いても答えられないと思うな。もちろん定冠詞の目的は対象の特定や強調だけど、果たしてその効果が映画の印象に影響してるかどうか疑わしいよ。」

それから、何かを思い出してクスリと笑います。

「オハイオ州立大学にはThe が付いてるって知ってた?」

全米に大学は何百とあるけれど、名前にTheが付いている大学はここくらいじゃないか、とディック。

「あそこの卒業生に、Ohio State Universityの出身なんだって?って聞いてごらん。十中八九、”The” Ohio State Universityだよって言い直されるから。」

またしても、英語という言語のいい加減さを物語るエピソードでした。

食事を終え、ディックを自宅へ招きます。我が家は水曜から妻が里帰りしており、久しぶりの独居生活。ダークローストのコーヒー豆を挽き、ドリップしてもてなす私。

「水曜から今日まで有給休暇を取って、五連休にしたんだ。」

この三日間、好きな時間に起きてひたすらボーッとし、好きな本や映画を楽しみ、ギターを奏でたり、食べたい物を料理して来た私。

「過去十ヶ月間戦ってきたストレスフルな環境から抜け出して、オールリセットするのがこの連休の目的だったんだ。とにかく好きなことばかりしてやろうってね。その仕上げが、会いたい人に会って楽しく喋る、という今日の企画。」

マグカップの取っ手に差し入れた二本の指をじっと見つめてから、満足げに頷くディック。

「そう言えばずっと前に、古い白黒作品の話をしてくれただろ。あれ、なんてタイトルだっけ?」

Summer with Monika(邦題「不良少女モニカ」)のこと?」

「あ、それそれ。そのうち観たいと思いながらも、なかなか決心がつかないんだ。」

だいぶ前にこの映画の話をした際、ディックの最初の結婚が失敗に終わった話を聞きました。どうやらあらすじがこの時の彼の経験と重なっていそうなので、古傷を刺激するのもちょっとね、というところで落ち着いたのです。

「人生で色んな挫折を経験して来たけどさ、そのたびに何とか乗り越えて来た。そしてそれをパワーにして来たとさえ思う。それなのに、離婚の記憶と向き合うことにはまだ躊躇してる。なんでだろうな。」

高校時代のクラスメート。別々の大学に通いながらも関係を続け、もう待てないと訴える彼女の要求を受け入れ、卒業と同時にゴールイン。三年間の大学院時代、毎日二十時間近く勉学に集中しつつ、ありきたりの新婚生活が出来ない状況で何とか関係を維持しようとするも、根本的な価値観の違いが次々に露呈。過保護な父親のおかげで困難な挑戦から逃げるのが常の彼女と、努力して目標を達成する主義のディック。結婚直後から、離婚は頭にちらついていた。それでも迷い続けたのは、「どんな問題でも必死に頑張れば解決出来る」という信念にとらわれていたから。

親しい誰かに相談は出来なかったの?と尋ねる私。

「親父に話してみたよ。だけど彼はそもそも俺の思想の教祖みたいなもんだからね。努力が足りないって思いが強まっただけだった。結局、余計に自分を責めることになった。」

弛まぬ努力により問題解決を重ねて来た者は、そのテクニックを人間関係にも応用出来ると思いがちです。でも、そもそも育った環境や信仰の異なる二人の人間が分かり合えること自体、奇跡だと思う私。

「そっか、ミラクルか。」

と考え込むディック。

「そう思うよ。人間関係ばっかりは、どんなに努力したところで改善には限度がある。皆それぞれ違う方向に違うスピードで成長してるんだしさ。だから、数ヶ月とか数年に渡って誰かと良い関係が築けてる時は、その幸運にとにかく感謝するのみだな、僕は。」

「そのアドバイス、あの頃に聞きたかったぜ。」

とディック。

「でもさ、こういうことって、すごく苦しんだ末に漸く自分なりの答えを出せるってもんじゃない?回答がストレートであればあるほど、見つかりにくい気がするな。」

と私。

「僕はこの数ヶ月間、ずっと苦しんでた。物事がうまく行かないのは、自分の努力が足りないからだと思いこんでたんだ。もっと頑張んなきゃってね。振り返ってみると、問題の大半は人間関係絡みで、とても一筋縄じゃいかない。長いこともがいたけど、諦めることにした。自分はスーパーヒーローじゃないって潔く認めて、戦うのを止めたんだよ。そしたらさ、急に周りがクリアに見え出した。自分が影響を及ぼせる範囲だけに意識を集中してコツコツ努力を続けることにしたんだ。そしたら、なんだか懐かしい喜びが蘇って来てさ。本当に久しぶりに、暗い地下室から抜け出せた気がするよ。」

この独白に近い私の話を静かに頷きながら聞いていたディックが、少し間を置いてこう言いました。

「ひとつだけ、同意出来ないことがある。」

え?何?と続きを待つ私。ニヤリと笑うディック。

“You are a superhero to me.”

「君は俺にとってのスーパーヒーローだよ。」

 

2021年9月26日日曜日

エリンとアーロン


先週木曜日の午後、東海岸のブライアンが招集した電話会議に出席。私の所属する部署の若手社員Dianaが会社認定のPM資格を取得しようとしていて、その最終面接に立ち会う、というのが目的。

「ハイ、シンスケ!」

微かに緊張を滲ませた笑顔で画面に登場した受験生の顔を見て、コロナ前にオフィスのランチルームで何度か出くわしていたものの言葉を交わしたことは無い女性だ、ということに気づきます。マイクロソフト・ティームズの出席者アイコンには名前が記されているので字面は確認出来て当然ですが、初対面の人が大抵つまずくShinsukeの発音を難なくこなしたという事実に、ちょっと感動していた私。それにしても、初めて会話する相手に下の名前で呼びかけるというこのアメリカンな習慣、渡米後二十年以上経つってのに未だに慣れないんだよなあ…。

実を言うと私、数十秒遅れで画面に現れた彼女の上司ジェナが「ハイ、ディアナ!」と言うまで、Dianaをどう読むべきか迷っていたのです。あ、そうなんだ、ディアナって読むんだ。良かった、反射的に「ハイ、ダイアナ!」って返さないで…。

ところがそうやって胸を撫で下ろしたのも束の間、この面接を仕切る還暦超えのブライアンがいきなり、

「さてダイアナ、最初の質問なんだが…。」

とスタートしたのです。えっ?今さっきジェナが「ディアナ」って呼ぶの、聞いてなかったの?

あろうことか、ジェナも、そして当のディアナも眉一つ動かさずこれを受け流し、ブライアンの「ダイアナ」連呼は面接終了まで延々と続いたのです。もしも僕が「シスケ」とか「シンスーク」とか呼ばれたら、ならべく早い段階での訂正を願い出ると思うんだけどなあ。なんで誰も何も言わないの?

実はこの手の疑問、今に始まったことじゃないのです。二年ほど前のある日、オフィスの一階上で働く若手社員のMeghanに、

「あのさ、君の名前だけど、ミーガンとメガンのどっちが正しいの?」

と尋ねました。イギリスのノーベル賞作家ゴールズワージーの短編「林檎の樹」に登場するキャラクターに同じ名前の女性がいて、学生時代に新潮文庫で読んだ時は「ミーガン」、数年後に書店で角川文庫版を開いた時には「メガン」になっていた。既に僕の中では完璧な「ミーガン像」が出来上がってんのに、後になって実はあれ、メガンが正しいんだって言われても困るんだよね。新潮と角川と、どちらに軍配が上がるのか?人生を左右するほどの重大テーマでも無いんだけどずっと気にはなっていて、同名の人物が実際身近に現れるまでそのチャンスを窺っていたのです(三十年以上も!)。

「ミーガンでもメガンでも、どっちでもいいのよ。」

とこの時、予想外の反応が返ってきます。

「いやいや、でもさ、私はこっちで呼ばれたいとか、親はこう読ませようとしたってのはあるんでしょ。」

と食い下がる私。

「ううん。特に無いわ。本当にどっちでもいいの。」

呆然と立ちすくむ私。おいおい自分の名前だぞ、そんないい加減な回答アリなのか?釈然としないまま、お礼を言って立ち去るのでした。

話変わって今週木曜の夕方、18ヶ月前に転職した元同僚のリチャードと、久しぶりの再会を果たします。場所は、去年近所にオープンしたEE NAMI Tonkatsu Izakaya(ええ波とんかつ居酒屋)のパティオ席。

「これ、なんて読むの?」

と挨拶もそこそこに質問してくるリチャード。

Eを二つ並べて、ええって発音させるみたいなんだ。」

「ふーん、そうなんだ。どういう意味なのかな?」

ここは大阪風とんかつ屋で、「ええ波」というのは「良い波」の関西弁。「ええ」の響きを表現しようとした結果、こういうアルファベットの使い方になったんじゃないか、と持論を述べます。Aひとつだけだと「エイ」になっちゃうからね。果たしてEEと書いたところでアメリカ人が「ええ」と発音出来るかどうかは謎だけど、と。それに対してリチャードは同意も反論もせず、さも感心したように頷くのでした。

そして間もなく運ばれて来たジューシーな極上ヒレカツ定食セットを味わいつつ、テーブルを挟んでお互いの「その後」をシェア。乗員数万人を擁する巨大タンカーから総員14名のスピードボートに乗り移ったリチャードは、彼を引き抜いた元同僚のジャック(御年92歳)とともに大活躍しているのとのこと。

「給料は大幅に上がったし、Utilization(稼働率)のプレッシャーも無いし、チームとしての意識はすごく高い。皆がお互いを気遣っていて、どんなに忙しくてもストレスを感じないんだ。社長はエコ意識が高くて、電気自動車が買いたいという勤続五年以上の社員には、補助金一万ドル出すって言うんだぜ。最高だろ。」

転職直前には、これが本当に正しい選択なのか随分迷った、とリチャード。

「大正解だったね。良かったじゃん。」

と私。

「シンスケは転職考えてないの?来てくれって言う人はいっぱいいるんじゃない?」

「うん。考えてはいるよ。でもね、僕にはチームがあって、これを盛り上げて行きたいって気持ちが強いんだ。」

部下達との年度末業績評価面談を前日に済ませたばかりだった私は、彼等の発展を真剣に考えていたタイミングだったのです。リチャードの転職先より世帯がデカい、今の私のチーム。メンバー達全員が日々幸せに働けるような環境を整えたいという気持ちは、彼のボスと何ら変わりません。そんな野心すら吹き飛ばしてしまうほどの圧倒的好条件を突きつけられれば、話は別ですが…。

加えて、面と向かってリチャードに伝えるのはさすがに思いとどまったのですが、実は「大企業に身を置く」こと自体のメリットも見逃せないファクターなのです。会社の規模が大きいということは関われるプロジェクトのバラエティも豊富だし、仕事の発展性だって変わって来ます。出張でフロリダやモンタナやユタやハワイ、そしてオーストラリアまで訪問出来たのも、大会社勤めの役得。そして何よりその過程で、才能溢れる何百人もの痛快キャラと知り合いになれたことは、絶対無視できない魅力なのです。つまり今のところ、私小説の味わいより大河ドラマの興奮を選択している私。

「あ、そうだリチャード、ちょっと英語の質問していい?」

同じ屋根の下で働いていた頃は、頻繁にこの手の質問をビシビシ投げ込んでいた相手です。当時を思い出し、つい顔がほころんでしまう私。彼の方も懐かしそうな表情を浮かべ、バットを構えて私の投球を待ちます。

「名前の読み方なんだけどね…。」

ちょっと前に部下のシャノンが、こんな話題を持ち出して笑ったのです。

「全く紛らわしくて困っちゃうわよね。プロジェクトチームに同じ読みの名前が二人いて、しかも綴りが全然違うなんて…。」

暫くの間、一体誰の話なのか分からず戸惑う私でしたが、ようやく理解に至ります。彼女がサポートしているプロジェクトマネジャーのErinと現場のトップAaronの名前が、どちらも「エレン」と読めるっていうのです。つまり「エレンが二人いる」と。

「え?全く同じ発音だって言ってるの?ちょっとの違いはあるんでしょ?」

「ううん。完全に一致してるのよ。」

俄には信じ難い説。日本人の私が普通に読めば、Erinは「エリン」、Aaronは「アーロン」です。それがどちらも「エレン」と発音されるため、耳で聞いただけでは誰の話題か分からない、というのがシャノンの主張。

「その通りだね。全く同じ発音だよ。」

ああそんな話か、と拍子抜けしたようにシャノンに同意するリチャード。

「ええ?だってさ、Aが二つ並んでるんだぜ。それをエって発音するなんておかしいでしょ。」

「うんそうだね、英語ってつくづく不思議な言語だよね。」

おいちょっとちょっと、それでおしまい?

「あ、そうだ、ミーガンとメガンはどう?」

と畳み掛ける私。どっちでも良いというのはいかがなものか。子供に名前をつける際、どう発音するかまでセットで考えないのか。対してリチャードは、またしてもそれが何故疑問なのかすら理解出来ない面持ち。

「うん、どっちの読み方も有りだよ。」

「じゃあさ、じゃあさ、」

これはもう、内角高めを抉る決め球を投じるしかない。

「誰かが初対面で君のことをリックとかディックとか呼んだらどう思う?ちょっとイラッとしたりするんじゃない?」

Richardというのは、リチャード、リッチ、リック、ディック、と多彩な変化型を持つ名前です。

「僕は長年リチャードって呼んでるけど、周りの皆がそういう呼び方をしてたから倣ったのであって、君自身が認める正式呼称なんだと思ってた。なのに君のことをまだ良く知らない人がいきなり違う呼び方して来たら、さすがに何だこいつはって思うでしょ。」

「いや、全然。きっとその人は知り合いに別のリチャードがいて、彼のことをリックとかディックとか呼んでるんだろうな、と思うだけだよ。」

そして彼の次の一打で、全身の力が抜けたのでした。

「そういえば、うちの親父は僕のこと、ディッキーって呼んでるよ。」

アメリカ人にとって、名前は記号に過ぎない。読み方なんてどうでもいいのだ。このお題に関する追究は、この日の晩できっぱりと終止符を打たれたのでした。

 

2021年8月29日日曜日

Have no fear 恐れるな


先月末、太陽照りつける金曜の正午過ぎ。上司のセシリアと近所のショッピングモールで待ち合わせしました。数年前に私が同じ界隈に転居して以来、そのうち食事でもしようと何度か話していたのですが、ずっと企画倒れになっていたのです。そうこうしているうちにコロナでリモートワークに突入し、気がつけばぶわっとタイムワープ。七月になってワクチン接種が広まり感染者数も降下したため、ようやく実現の運びとなったランチミーティングでした。

「実は今日こうして直接会おうって誘ったのには、理由があるの。」

インドカレー店のパティオ席。パラソルの下で三種類のカレーを楽しみつつ近況報告を交わした後、セシリアが言いにくそうに切り出します。

「まだ誰にも言わないで欲しいんだけど、十月にまた大きな組織改編がありそうなのよ。」

反射的に鼻で笑い、ゆっくりと首を左右に振ってしまう私でした。はいはい、またですか。一体どれだけ組織変更にエネルギー注ぎ込めば気が済むんだよ、この会社は…。

そもそもさかのぼること2018年九月、私の属する環境部門が他のビジネスラインと袂を分かち、まるで独立国家のような体制で運営されることが決まりました。それまで同じオフィスで働いて来た別部門(交通、建築、上下水道、など)の同僚たちと異なる指揮系統で動くというのです。北米西部地区の大集会にも一応招かれはするものの、オブザーバー的な立場で出席する形になり、なんとも落ち着かない気分。ややこしいことに、わが部門も同様の地域制を採用しているため、「環境部の」北米西部地区が別に存在するという、異母兄弟同居状態。

そんな居心地の悪い状況が続いていた昨年一月、「環境部北米西部」の新体制が発表されました。サンディエゴ支社のセシリアの下でこじんまりやっていた私のプロジェクトコントロールチームは、南カリフォルニア全体を所掌することになり、チームメンバーは二倍に膨れ上がりました。更に西海岸北部をカバーしていたアリーナのチームと合体し、オレゴンのカレンが二人の上司に就任。総勢二十名超の「環境部北米西部プロジェクトコントロール・チーム」が誕生したのです。

ところがそのわずか半年後、さらなる組織改編が発表されます。今度は北米全域を跨ぎ、業種ごとに横串を刺すスタイルの組織に変更するというのです。地域ごとに人を束ねる必要性が薄れるのですから、理論上はポジションを減らすことが可能。果たして数百人がレイオフされ、上司のカレンも会社を去りました。新生プロジェクトコントロール・チームはあっけなく解体され、私のチームはセシリアの下に逆戻り。アリーナのチームは別部門に吸収されました。

そして十二月。私はPDL(プロジェクト・デリバリー・リード)という職務を引き受けます。200件を超えるプロジェクトの財務管理が主な業務ですが、プロジェクトコントロールの仕事も継続することにしたため、就任以降は「起きている時間ほぼずっと仕事」という日常が続いています。最高執行責任者であるコネティカットのジョンが事実上の上司になり、毎週厳しい要求が飛び込むようになりました。

「歳入額が全然目標に達していないぞ。何としてでも月末までに達成してくれ。」

「こんな少額のコンティンジェンシーは必要無いだろう。削除して歳入額を増やせ。」

「シンスケはPM達に甘すぎる。もっとアグレッシブになれ。ギリギリ絞り上げるんだ。」

四半期毎の財務報告は経営者の成績表みたいなものですから、ジョンにとっては理にかなったアプローチです。しかし私にしてみれば、プロジェクトやPM達を危険に陥れるような真似だけはしたくない。近視眼的で金勘定優先の指示を、唯々諾々と受け入れるわけにはいかないのです。プロジェクトにはそれぞれ細かな事情があり、PM達と深く会話して初めて得られる情報は多々あります。チームメンバー達と会ったこともなく現場の状況も知らないジョンに、二千キロの彼方からやいやい言われるたび、

「これには深いわけがありまして、カクカクシカジカ…。」

といちいち弁明する私。エクセル表に並ぶ何百件ものプロジェクトの経営評価を超高速でこなしていくジョンの目には、私がPMの立場を擁護し過ぎているように見えても不思議はありません。

「次の組織改編では、地域枠を完全に撤廃しようって動きがあるの。今の私達は南カリフォルニアを管轄してるけど。それさえ失くそうって話なの。つまり部門長という私のポジションも、あなたのPDLとしてのポジションも、どうなるか分からないのよ。だから、今からそういうケースを想定しておいて欲しいの。」

セシリアの顔に、ようやく本題に斬り込めたという安堵の表情が浮かびます。

「どうしてもPDLの仕事を続けたいというのであれば今からジョンに掛け合わないといけないけど、そういう気持ちは無いんじゃないかって推察してたの。どう?」

「ご明察。PDLのポジションは喜んで返上するし、プロジェクトコントロールの仕事に百パーセント戻れるならむしろハッピーだよ。」

「良かった。思った通りだった。」

「大体さ、ジョンの方だって僕にPDLを続けて欲しくなんてないと思うよ。彼の求めているのは、もっと従順に動いてくれるタイプの人間でしょ。」

セシリアの目に、微かに躊躇の色が差します。それから慎重に言葉を選びながら、こう言ったのでした。

「連絡や報告という面では、あまりあなたのことを高く評価していないみたいね。」

察するに、彼女はこの件で既にジョンと会話を交わしていて、私に対する不満を彼から聞かされていたのでしょう。信頼関係を築けていない相手とのコミュニケーションが円滑なわけも無く、驚くに値しないフィードバックですが、このボディブローは帰宅してからジワジワと効いて来ました。一時は会社を辞めようかと思い悩むほど追い詰められた私ですが、それでも過去半年間、「可能な限りの成果を挙げた」自負はありました。だから高く評価されて然るべきというのは、よく考えれば単なる思い上がりでしょう。ジョンの目に「いつまでも打ち解けようとしない面倒くさい男」と映っていても、文句は言えません。

本職に軸足を残したまま新たな職務を引き受けた理由は、己の剣を錆びつかせたくないという思いの他に、次の組織変更で大波を食らったとしても戻れる港を確保しておこうという、一種の保険でした。しかしそんな保険、一体どれほど有効だというのか?「新体制にシンスケのような人材は必要無い」とジョンがコメントするだけで、一発退場も充分有り得ます。本当にそうなったらどうする?息子は秋から大学三年になるんだそ。あと二年分の学費、払えるのか?

それから毎日のように夫婦で話し込み、二人でビジネスを始めてみるとか、転職の可能性を求めて知り合いに連絡取ってみるとか、アイディアを出し合うのでした。

さて今月半ば、夏休みで帰省していた息子と一緒に、オレンジ郡にあるお気に入りのベーカリーカフェBrio Brioまで出かけました。オーナー夫妻とは以前から仲良くなっており、ちょうど前日からディナーメニューをスタートしたというので駆けつけたのです。この店の食パンとバターロールは、私の生涯ダントツの美味さ。わざわざサンディエゴから長距離ドライブする価値は十二分にあります。

日本での仕事も住まいも全て清算し、背水の陣でこの店を開いた彼等は、ベーカリーを出発点にどんどんビジネスを広げて行こうと意気込んでいました。しかし出会い頭にパンデミックがやって来て開店準備は困難を極め、さらにはアルコール飲料提供のためのライセンスが何ヶ月も下りなかったり、と苦難の連続。旦那さんは過労で何キロも体重が落ちたそうなのですが、「本当に上質なものやサービスを提供すれば客は必ずやって来る」という信念を胸に懸命な努力を続けた結果、今では大評判のベーカリーになっているのです。脱サラしてアメリカで店を開くという一点だけ取っても既に想像を絶するチャレンジなのに、コロナという全く予想外の大波に立ち向かわなければならなかった彼等。それでも二人の目にはエネルギーがみなぎっていて、必ず店を成功させ、将来はこのショッピングモール全体を買い取ってみせる、と野望を語ります。

残念ながら、ディナーを提供し始めて僅か二日目ということもあり、結局この夜の来客は閉店まで我々一組のみでした。

「この状況が二週間も続いたらさすがにキツイですけど、大丈夫。必ず何とかします。」

どんなに大きな障害が立ち塞がろうともとにかく前進あるのみ、という圧倒的な「生きる力」を感じます。ふと気になって、何が彼等をここまで駆り立てているのかを質問したところ、

「南カリフォルニアに住みたかったんですよ。それだけ。」

と笑うご主人。軽く頭を殴られたような衝撃を受けました。こんなシンプルなモチベーションを発射台にして、二人は新天地でゼロからの再スタートを切った。そうか、人間は強い意志さえあれば何でも出来るんだ。自分だって21年前にこの地を訪れた頃、何の武器も持たなかった。仕事のあてもなく二年間で貯金も尽きて、絶望的な状況だった。それでも何とか乗り切ったじゃないか。そうだ、大丈夫だ。「人はいつからでも、何者にでもなれる(中田敦彦)」。

夜のハイウェイをサンディエゴに向かって車を走らせながら、元気をくれたあの夫婦への感謝を噛みしめるのでした。

さて今週月曜の朝のこと、ボスのセシリアからメールが飛び込みます。組織改編のニュースを伝えたいので、緊急電話会議を招集するというのです。いよいよ本決まりか…。深呼吸をしてログインします。

「私が聞いていたのと、全く違う組織形態が発表されたの。環境部門は九月末に解体されて、各地域部門に吸収されることが決まったのよ。」

あろうことか、我々は三年前に逆戻りして、北米西部地区という元の鞘に収まるというのです。はぁ?なんだそれ。じゃあこの三年間は何だったんだ?安堵の前に、言いようのない憤りに襲われる私。度重なる組織変更に伴って費された、あの膨大な時間とエネルギー。理不尽に会社を追われた、優秀な社員たち。三年間に及ぶ壮大な社会実験は大失敗。「やっぱり前の組織に戻しますね、ちゃんちゃん。」って、それで済むのかよ!

翌日の火曜、ジョンがPDLを集めて緊急会議を開きます。

「みんな聞いていると思うが、九月を持ってこの組織体制は終了することになった。これまでの皆の努力には本当に感謝している。残りの期間、しっかり任務を遂行して欲しい。」

PDLが今後どうなるかについては分からない、とジョン。皆優秀だし上層部からの信頼も厚いので、次のポジションはすぐに見つかるだろう。かくいう自分は北米東部地区上下水道部長への異動が決まった、と。電話空間に静寂が訪れます。

「今更こんなこと言ったってしょうがないけど、私はこの仕事を引き受けるために、約束されてた技術畑のポジションを断ったのよ。」

と、カナダ地区を所掌するウェンディがため息まじりに呟きます。そう、PDLの多くは前回の組織改編時、技術系のキャリアと決別して経営サイドに両足を突っ込んだのです。まさかこんなにあっさりと梯子を外されるとは…。ジョン本人も、最高執行責任者というポジションがこれほど短命に終わるとは意外だったはず。そんな想像を巡らせていた矢先、彼がしっかりとした口調でウェンディにこう答えたのです。

“Have no fear. We are all valuable.”

「恐れるな。我々は皆、貴重な人材なんだ。」

うーむ、なんというハートの強さ。色々と確執はあったけれど、この人の持つ「生きる力」に、ちょっぴり感動を覚える私でした。

 

2021年7月5日月曜日

Field of Dreams フィールド・オブ・ドリームス

 


三十年以上前に日本で観たケヴィン・コスナー主演のヒット映画「フィールド・オブ・ドリームス」を、最近久しぶりに再鑑賞しました。自分だけに聞こえる、

“If you build it, he will come.”

「それを作れば彼がやって来る。」

という謎の声に誘われ、通常なら考えもつかない突飛な行動に出る農場経営者の主人公。気でも狂ったかと止めにかかる親戚たちに逆らい、妻子の支えを頼りに広大なトウモロコシ畑の一角を潰して野球場を建設する三十路男。メッセージに含まれた「彼」が何者なのか明かされぬまま非現実的な出来事が立て続けに起こるのですが、エンディングの涙腺爆撃で完膚無きまでに打ちのめされます。

今回も嗚咽を堪えるのがやっとの私でしたが、鑑賞後に思うところがありました。この「謎の声に従って素直に行動したら素晴らしい出来事が起きた」という経験、確かにあるような気がするのですね。理屈よりも直感を大事にしたら、不思議な偶然が重なって思いもよらないラッキーな結末が待っている。こういう体験、実際に何度かあったのです。

水曜の午後、仕事を一時中断してコーヒーのおかわりを注ごうとキッチンへ行った際、ダイニングテーブルで仕事していた妻が話しかけて来ました。

「さっきね、K子さんから電話があったの。」

「随分久々だね。なんだって?」

K子さんというのは、妻が四半世紀前に留学先のミシガンで知り合って以来のお友達です。妻はその後帰国したのですが、K子さんはカリフォルニアの日系企業に就職。数年後、妻と出会って結婚した私が留学した際、K子さんが二つ目のマスターを取ろうと選んだ学校が偶然私と同じだった、という奇跡。その後も南カリフォルニアで一年に数回食事をする関係が続いていました。そのK子さんから久しぶりに連絡があったというのです。

「野球観に行かない?って誘ってくれたの。大谷翔平がもうすぐ30号ホームラン打ちそうだからって。いいですねって答えて、今チケット調べてたの。行きたい?」

「お、いいね。行こう行こう。」

南カリフォルニアのワクチン接種率はかなりのペースで上昇しており、この界隈は「コロナ完全収束前夜」と呼んでも良いような明るい雰囲気に満ちています。しかし過去一年以上「人混み」から遠ざかって来た結果、出かけるのが億劫になっている自分がいました。試しに先月、ダウンタウンのオフィスに出勤してみたのですが、簡単に「人疲れ」してしまい、帰宅後すぐにベッドで横になる始末。大谷の活躍はネットで見て知っていましたが、片道二時間以上も運転した末に観客でごった返す球場に飛び込むことを考えると、正直ちょっぴり気が重い…。

ところがこの時、何故かそういう面倒臭さは一瞬頭から消し飛んでいて、K子さんの提案に素直に賛同していた私。後で考えても不思議なのですが、「迷わず行けよ、行けば分かるさ」とでもいう内なる声に押され、それに従っていたのです。

そして金曜日。午後二時半に家を出て大渋滞のハイウェイをじりじり進み、オレンジ郡でK子さんを拾ってエンゼルス・スタジアムに到着したのは五時過ぎ。三塁側内野3階席に陣取って見渡すと、エントランスで無料配布された赤いアロハシャツを羽織った何千という客が観客席に散らばり、全体がエンゼルス・カラーの赤で染まっています。私達の周囲には小学生くらいの子供を連れたグループが多く、バケツ大の紙容器に入ったポップコーンやらピザやらを食べながら突き合ったりふざけ合ったりしながら、やんやの歓声。

前夜ニューヨークでヤンキース戦に先発し、5四死球7失点で初回降板という稀に見る乱調を見せた大谷。いよいよスランプ突入か?ひょっとして今日の試合は欠場かも?というこちらの心配をよそに、二番DHで元気に登場した若きヒーロー。

最初の打席こそ内角高めに詰まらされてライトフライに終わったものの、二打席目は同じ内角球をライト外野席上段に深々と打ち込み、リーグ単独トップを更新する29号。球場がどよめきます。おいおい、このまま30号も打っちゃったりなんかして、と三人顔を見合わせていたら、本当に次の打席、今度はレフトに2ランホームランを叩き込みます。嘘だろ?こんなことってある?とファンはそこら中でお祭り騒ぎ。


7対7の同点で最終回裏の攻撃が始まったのは、時計が夜9時45分を回ったあたりでした。四球で一塁へ進んだ大谷はやすやすと2盗をキメますが、二塁へ送球した捕手のヘルメットに打者のバットが微かに触れており、守備妨害ということでこのプレイは無効になります。エンゼルスファンは一斉にブーイング。しかし大谷はまるで盗塁なんていつでも出来ますよとばかり、軽々と二度目の2盗を成功させます。そして四番打者ウォルシュの強打がライト前に落ちる間に俊足を飛ばし、本塁へ滑り込んでサヨナラ勝ちを収めるという、漫画だとしても嘘臭すぎるほどの劇的な展開になりました。何千もの観客が総立ちになり、その場で両手を挙げ、奇声を発して飛び跳ねます。私もあまりのことに大口を開け、目を見開いてぼんやり周りを見渡したところ、左後方の通路で拍手をしていた中年の白人男性と目が合いました。彼はにっこり笑って私の目を見つめたまま、ゆっくりと深く頷いたのでした。

「何も言うな。分かってる。最高のゲームだった。オータニは真のヒーローだ。」

赤の他人同士が暗黙の了解を交わして悦に入るという、何とも素敵な図でした。

3階席最前列まで降りて大谷選手(一平さん通訳)のヒーローインタビューを聞いた後、球場をぐるりと廻るスロープを大勢の帰り客とペースを合わせて進み、駐車場へ向かいます。その間、誘ってくれて本当に有難う、とK子さんに何度も感謝する我々夫婦。急遽決めたこの野球観戦。面倒臭がらず、心の声に従って本当に良かった、としみじみ思いながら。

それにしてもK子さん本人はどうして急に野球観に行こうだなんて思いついたんだろうね、と車中で妻と首を傾げます。何十年も交際して来たけど、これまで一度だって野球の話題で盛り上がったことがないのです。きっとK子さんの中でも、何かドラマチックな出来事が起こるかもというお告げがあったんじゃないか、という結論に至ったのですが、私にはそう確信する理由がありました。最終回が近づいた時、彼女が私の方に向いて急にこう尋ねたのです。

「ええっと、こっちがライトでこっちがレフトでいいんだっけ?」

え?…ええ~っ?

 


2021年6月20日日曜日

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金曜の昼。抜けるような青空の下、4S Ranchという比較的新しいニュータウンのショッピング・モールにあるイタリアンレストラン「Piacere Mio Del Sur」まで車を走らせました。私の見立てでは、サンディエゴ最高ランクの極上ピザを味わえるお店。この場所を選んだのは、懐かしい友人との再会を祝うためでした。

カリフォルニア州知事の発表により6月15日をもって飲食店の入店制限が解除され、これまで息を潜めていた市民達が、まるでマラソン大会スタートの号砲を聞いたかのように一斉に街へ溢れ出したようで、まだ正午前だというのに既にモールの飲食店エリアではそこここで行列が出来初めています。私の順番がようやく巡って来たので中を覗き込むと、家族連れを始めとした団体が十数組ものテーブル席を埋め、満面の笑顔で歓談しながらランチパーティーに興じています。イタリア語なまりの英語を喋るマスク姿の若い男性店員が、

「申し訳ないんだけど、あとはカウンター席四人分しか空いてないんです。」

と困り顔。ネットで調べた際に予約を取らないと断り書きがあったので直接来てみたんだけど、もうちょい早く集合時間をセットするんだったな、と軽く後悔。

「ここまで混むとは全然予測してなかったよ。」

と、店員が嬉しい悲鳴を上げます。まだ友達が到着してないんだと言うと、着席して飲み物でもどうぞ、と一番奥へ誘われ、足が床に届かないほどのハイスツールに腰を下ろします。忙しげにカクテルを作り続ける黒マスクの男性バーテンダーから笑顔の歓待を受け、ペリエを注文して喉を潤したところ、背後から白人の大男が現れました。

「ヘイ、マイフレンド!久しぶり!」

そう、この日は数ヶ月前に転職して行った元同僚ディックとのランチだったのです。野球帽からはみ出して襟元にかかる栗毛色の長髪、そして無精髭。かつてはすっきりと締まっていた腹部も、半袖シャツ越しに見事な隆起を見せています。長期の在宅勤務で運動不足だったことは一目瞭然ですが、眼光にはエネルギーが漲っていて、再会の喜びは即座に確認出来ました。カラヴァッジオ・ピザとラム肉のパッパルデッレを注文し、限られた昼食時間を有効に使おうと矢継ぎ早に質問する私。

家族は皆元気なこと、リモートワークが続いていて転職以来一度も自分のオフィスに足を踏み入れていないこと、しかしストレスは激減したこと、同僚たちの真摯な気遣いを度々感じること、チームワークが良く個々のモチベーションも高いためか、プロポーザル競争での戦績が驚くほど良いこと。

「クライアントもさ、うちのチームの結束力を感じ取るみたいなんだ。ただ単にエキスパートを沢山揃えてますよ、と売り込むのと違って、このチームに任せれば大丈夫だという安心感を与えられてる。これは転職してすごく感じてることなんだ。」

とディック。それは素晴らしいね、と私。うちの会社は顧客より明らかに株主の満足を優先しているし、社員の多くはいつ辞めさせられるかとストレスを溜めており、その前にとっとと転職しちまおうかと悩む者も少なくない。そんな環境で結束の固いチームを作るなど至難の業です。対してディックの転職先では社員の自主性が尊ばれていて、皆がのびのびと働いているとのこと。

「色々振り返ってみて思うんだけどさ、」

とディックが最適な表現を探そうと宙を見つめて暫し沈黙します。

“It’s like a swing of pendulum.”

「ペンジュラムのスイングみたいなものだ。」

Pendulum というのは振り子のことですが、彼が何を言いたいのか飲み込めず、続きを待ちます。

「トップが変わる度に、会社の方針や組織体制がガラリと180度変わって来ただろう。冷静に考えると、それは必要に迫られてではなく、ただ単に前任者のやり方を否定して新しさを打ち出したいだけの話じゃないかと思うんだよ。大きいことは良いことだ、と言わんばかりに果敢な吸収合併を押し進めたと思ったら、次の代では贅肉を削りまくれと極端なリストラに走ってさ。とにかく前体制を全否定することから新政権がスタートするから、うまく機能していたやり方でさえ、お構いなく嵐のように吹き飛ばして行く。我々末端社員に出来ることは、次の大幅改革とやらが到来するまで頭を低くしてやり過ごすくらいさ。」

つまりディックが言いたかったのは、こういうことですね。

“It’s like a swing of pendulum.”

「まるで振り子の振動みたいなものだ。」

昨年秋の組織改編で私の身の周りに起こった変化も、まさに180度の方向転換でした。西海岸をひとつのブロックとして経営すること、プロジェクト・コントロール部門を一枚岩にし、PM達とパートナーシップを組んで経営改善に望むこと。そういう方針で仕事を進めていたのに、突如東海岸チームがカナダを含めた北米全体の経営指揮権を得て、プロジェクト・コントロール部門はあわや解体の危機に。何とか存続はしたものの、弱体化は誰の目にも明らか。PM達はマイクロ・マネージされ、これまで四半期ごとだった経営状況のチェックも毎月に頻度が上がりました。

PM達が何よりフラストレーションを訴えるのは、自分のプロジェクトの背景をよく知らない遠く離れた連中が、データだけ見て「問題の可能性」を指摘し、「今すぐ解決案を策定しようじゃないか。我々に出来ることは無いか。」と干渉して来ること。そもそもエクセル表に現れたデータはプロジェクトの状況を正しく反映していないことが多く、数字に表せない特殊事情を色々学んで初めて理解出来るケースがしばしばなのです。大勢で寄ってたかって解決すべき問題などそもそも存在しないのだと上層部に納得させるのは時間と労力の無駄であり、有難迷惑でしか無い。地域ごとにマネジメントが任されていた頃は良かった、と。

プロジェクトの問題を発見し解決するのはPM(とそのパートナーであるプロジェクト・コントロール)であり、彼らの自主性を重んじた上で必要に応じ上層部が手を差し伸べる、というのが私が理想とする組織運営です。これに対し新体制は、上層部が監視の目を光らせ、PM達が気づく前に問題の可能性を察知しズカズカと介入する、という流儀。

経営改善のプレッシャーは必要ですが、双方向の信頼関係も極めて重要です。ある程度の自由裁量を与えられている代わりに責任も負っているという自覚があるからこそ、PM達は自信を持って働けるのだと思います。新体制のやり方に適応しつつも、その思想に染まることは避けよう、いずれ振り子は逆に振れるのだから…。そう自分に言い聞かせる私でした。

「結局さ、信頼の欠如に気づいたPM達はやる気を失って行くんだよな。」

とディックが力なく笑います。転職前の彼は、まさにそういう心境だったのでしょう。

彼のこの表情を目にした時、つい最近体験したある出来事を思い出しました。

毎朝一万歩のウォーキングを日課としている私は、薄曇りの早朝、ガランとした住宅街の大通りを軽快に進んでいました。何か前方の景色に違和感を覚えて目を凝らすと、交差点の手前で道の真ん中にSUVが停まっており、運転手らしき若い男性が降りて大声で誰かに呼びかけています。近づいて行くうちに、もう一台、逆向きのSUVが歩道の植え込みに乗り上げ、電信柱の手前でストップしているのが目に入りました。そしてようやく、その左前輪のタイヤがバーストして跡形もなくなっていること、運転席のドアは開いており、車内は無人であることに気付きます。

車道に立って声を上げている男性の視線の先を見ると、痩せた人物が、こちらに背を向けて遠くをよろよろと歩いています。どうしたのかと尋ねると、

「車がこんなことになってるのに、運転手がどんどん向こうに歩いて行っちゃうんだ。心配になって声をかけたんだけど、立ち止まってもくれないんだよ。」

もう一度遠くに目をやると、その人物が突然振り返り、こちらに向かって何か言い始めました。どうやらかなり高齢な人物で、その歩き方から、頭を打って朦朧としているか、どこか怪我をしているかが疑われます。

「どうしよう。俺、もう行かなくちゃいけないんだ。」

と腕時計に目をやる男性に、

「あとは僕に任せて。もう行っていいから。」

と言い、急いで老人の後を追いかけました。

「大丈夫ですか。お怪我はありませんか。」

近寄ってみると、枯れ木のように痩せた白人男性。八十代後半でしょうか。声帯の手術を経験した人のようで、ほとんど声が出ていません。耳を近づけてみると、

「大丈夫。怪我はしてない。」

と答えていることが分かりました。

「どこへ行こうっていうんです?あれはあなたの車ですよね。」

「パンクしたんだ。今から家へ帰らないと。」

「ご自宅は近いんですか?」

「いや、遠い。」

「どなたかご自宅にいらっしゃるのですか?連絡出来ますか?」

「一人暮らしだ。電話は家に置いてある。帰宅すれば連絡する相手はいる。とにかく家に帰らなきゃいかん。」

やれやれ、電話も持たずに外出したのかよ。

「あまり動かない方がいいと思いますよ。頭を打ってるかもしれないし。」

「打ってない。大丈夫。とにかく誰かに家まで送ってもらえさえすれば何とかなるんだ。」

「私は今ウォーキングの最中なので、お送り出来ないんです。一旦車のところまで戻りませんか。」

連れ立ってゆっくりと今来た道を戻り、二人で故障車をしげしげと眺めます。左前輪が大破してはいるものの、よく見ると電信柱の数センチ手前で止まっており、衝突の形跡は無い。歩道に乗り上げてはいるものの、大きな交通の邪魔にもなっていない。確かにこの老人が言う通り、一旦家に戻って電話でレッカー車を手配すれば解決出来るケースのようです。後は彼がどうやって自宅まで辿り着くか、ですね。この人のためにウーバーを呼んであげるべきか。でも、どうやって料金を精算すればいいのか?いや、一旦我が家へ帰って車でここまで戻るか。そうすると彼を15分ほど待たせることになる。そりゃ良くないな…。そうして頭が問題解決モードに突入したその時、サイレンの音が聞こえて来ました。角を曲がってサンディエゴ市警のパトカーが目の前に現れるのと同時に、老人が弱々しい声でつぶやいたのでした。

“Oh boy.”

「マジかよ。」

恐らく一部始終を目撃していた近所の人が、警察に電話したのでしょう。事故車の後方で停車したパトカーから、筋肉隆々の若い警官が二人降り立ちます。何とかおおごとにせぬようもがいた老人が、寄ってたかって問題解決を図ろうと張り切る人々の前に屈する、という皮肉な結末。

「あ、私は単なる通りすがりの者でして…。」

とプロ達に後を任せ、そそくさと立ち去る私でした。